梶山シュウ:電気ベーシスト/ヴォーカリスト/シンガーソングライター

1965年広島生まれ。放浪の後、広島在住(2018年)。

独特の理念に基づく奏法と大陸的な歌声、ループマシンによるサウンドメイクで、唯我独尊の道を進む孤高の弾き語りスト。

自らの弾く楽器をあえて「エレクトリックベース」ではなく「電気ベース」と呼び、ある種の民族楽器である、と捉えてゐる。


10歳:映画好きな少年。しかしサントラを聴くだけで、感動した映画のシーンを想起せしめる「映画音楽」に強い興味を持つ。同じ頃、7才上の姉の聴いてゐた洋楽&ロックにも惹かれる。

11歳:クラスメートと、自分達がバンドを組む妄想に耽る日々。友人の夢でベースを弾いてゐた、といふ事から、なんとなく「ワシはベース」と思ふ。が、当時はベースがなにかは知らなんだ。


12歳:小学校卒業記念学芸会で、「なにかトテツモない事をやろう!」と思ひ、妄想であった「ロックバンド結成」を実現させる。この頃見た「ロックバンドの写真」はキッス、ビートルズ、ストラングラーズ、トム・ロビンソン・バンド、(第三期の)ディープ・パープル・・・、奇しくも「ベーシストが唄うバンド」ばかり。これで「ベーシストは唄うパートなのだ」と勘違いする。


クゥイーンブライアン・メイが、自分でギターを作った、といふ逸話を聞いてさらなる勘違い。弦を逆に張るほど無知であったのに、ベースを自分で作る。粗大ゴミのやうなシロモノであった。
その粗大ゴミベースで卒業記念学芸会に出演。バンド名は「ザ・グースエッグス」。演目はクゥイーンの「She make's Me(のAメロだけ)」。


中学入学:本格的にバンド「The Bright」結成。同時に吹奏楽団に入り、サックスを希望するもテューバに回される。


14歳:ちゃんとしたベースを買ってもらふ。文化祭、予餞会荒らしの日々。中学生活のすべてが、年に弐度あるこれの為にあった、と云っても過言ではない。当然、勉学はそっちのけ。


15歳:バンドのギタリストからちょこちょこ教わってゐたギター(アクースティック)が、そこそこ弾けるやうになり、独りで弾き語りを始める。孤独な作業に没頭するのが性にあってゐた。以後、ベースは辞め、異常なほどののめり込みでギターを弾きまくる日々。当然、勉学はそっちのけ。


高校進学:ひたすらギター弾きまくる日々。前の席に座ってゐた数井政彦(現在のカズイ)と意気投合。フォークデュオ「流浪人(さすらいど)」結成。コンテスト荒らしの日々。自主企画のライヴなども行ない、また、高校生にしては達者な事を演るデュオ、と認められ、大人の世界にも顔を突っ込む。当然、勉学はそっちのけ。
高三:ブルーズやジャズを聴くやうになる。高校卒業したらアメリカか東京に出てヒトハタ上げる、とか息巻いてゐたが、結局当時付き合ってゐたスタイルの良い彼女と離れたくないといふ理由で、人生計画の白紙撤回。
18歳:夏になる前に、件の彼女にフラれる。
19歳:フラれた勢いで音楽を辞めてしまふ。高校時代からやってゐた格闘技の方に熱意が傾き、トレーニングに明け暮れる日々。人生でもっとも「脳筋(脳ミソまで筋肉に侵される)」な時代。またバイクに凝ってゐた時代でもあり、地図も持たずに各地を放浪したりもする。
20歳:昔の事を聞き付けた友人からヘルプを頼まれ、何故か5年ぶりにテューバを吹く。久々に目標に燃え『音楽ってやっぱり良いな』と思ふ。
同時期:音楽活動再開を決意。あとに引かぬ覚悟と、初心に帰る、といふ変に律儀な思ひ込みから、ベーシストとしてやり直すことにする。ギブソンを売ってベースを買う。後輩らとインスト(ジャズでもフュージョンでもなくてインスト)バンド「電柱組」結成。


22歳:就職で広島に帰郷。16歳頃からの友人三代目春駒(当時の屋号は小林一彦)とバンド「小林一彦&The south side avenue band」結成。まだライヴをやってないうちから『ワシらは最強だ』と触れ回る脳筋ぶりを見せつける。
23歳:ライヴに明け暮れる。当時まだ珍しかったR&Bスタイルのオリジナルロックはそこそこ人気があり、ツアーも経験。遠からずメジャーデヴー出来るもの、と思ひ込み、会社は6ヶ月で辞職。が、同時にバンドが休止状態に入り、仕方なく各地を放浪する。
24歳:春駒が一身上の都合で音楽から撤退(のちに復帰)。アオリを受け戦々恐々とするメンバーの中で、「音楽で身を立てる」事にこだわり、誘いのあるバンドすべてに参加。7バンドを掛け持ちし、リハだけでバイト代がフッ飛ぶ日々。友人に驕ってもらって喰ひ繋ぐ。
25歳:初めて自分がリーダーとなって唄うバンド「オルカ団(第一期)」を結成。矢面に立つ、といふ事の大事さを知る。
26歳:インドやアラブの音楽に興味を持ちはじめる。フレットレスベースをフィーチャーした初めてのインスト曲「キャメル」を作るも、誰からも相手にされず落ち込む。旧友カズイとレコーディングバンド「GAMBOL-Allay」結成。アルバム制作に打ち込む。
27歳頃:「Oh Yeh」とか「Baby」とか「君にハッピネス」とかいふ歌詞が溢れる現状に嫌気が注し、「唄のあるすべての音楽」を否定するに至る。「弾き語り」から音楽をスタートさせた身としては大改革であった。同時期、ギタリストの柴作伊佐雄に誘われ、ジャズロックバンド「S.Y.U.K.」に参加。
28歳:S.Y.U.K.での活動でベースの技術、作曲技術が飛躍的に進化。この頃からぼーちぼち音楽だけで食えるやうになる。同時に初めてのベースソロパフォーマンスを行ない、好評を得て、ちょっと調子づく。「唄」ではない「声」を使った表現に可能性を感じ、再び声を出すやうになる。
29歳:結婚。インドへ行く。
30歳:これまで培った変態技術と民族音楽への嗜好、元々のポップ感覚を融合させたリアルポップバンド「オルカ団(第二期)」結成。これを期にヴォーカルも解禁。オルカ団に全力を注ぐ為、S.Y.U.K.を離脱。同時に「ベーシスト」といふこだわりを捨て、ステージでギターやピヤノなぞ弾くやうになる。
オルカ団は第二期から五期まで8年間に渡り、音楽性とメンバーの変更を繰り返しながら存続。同時にベース壱本によるソロパフォーマンスも定例化。
37歳:オルカ団で初めて東京ツアー実現。手応えを得るものの、その打ち上げの席でメンバーから離脱を告げられ、落ち込む。その場に居合わせた打楽器奏者くどうげんたと意気投合。それがきっかけとなり、その後ひとりでたびたび東京を訪れるやうになる。旅の始まり。
度重なるメンバーの脱退により、2005年にオルカ団消滅。

39歳:唄とベースによる音楽表現を追い求める。それを「えせニック音楽」と名付ける。それを引っさげ、九州〜山口〜関西〜中部〜関東を廻る、初の単独ツアー決行。のちに重要な拠点となる名古屋を初めて訪れる。
40歳:もはや迷うことなく「ベース弾き語りスト」といふ看板を掲げ、椎名まさ子と「しーなとシュウ」結成。
43歳:東京で参加してゐた「キキオン+リズマ・クノムバス」の一員として、メキシコツアーが実現。異国の地で堂々と「えせニック」を爆発させ、手応えを得て、また調子づく。このキキオン+リズマ・クノムバスではDVD作品も残す。
45歳頃:再びギターを手にし、ヘタクソになってゐる事に驚き、ギターの弾き語りも始める。これが認められ「」といふスタイルで定着する。ベースのソロ弾き語りに関しては「独弾(どくだん)」、ギターの弾き語りは「吟」と呼び分けてゐる。
46歳頃:年間のライヴ本数が100を超えるやうになる。しーなとシュウでもツアーに出るやうになる。
48歳:しーなとシュウの活動活性。人妻であり、よその家庭の母親でもあるしーなさんを長期の旅に付き合わせ、当初はかなり顰蹙を買ってゐたやうだが、お構いなしにやってるうちに、「広島に居ない二人」と思はれるやうになり、「旅するえせニック歌謡デュオ」の名も定着する。
49歳:しーなとシュウが結成10周年を迎える。活動の範囲はさらに拡がり、北海道、東北、関東、中部、関西、とツアーのルートも定着。また唄う行商人富安秀行との活動を介し、さらに多くの実力派ミュージシャン達との邂逅を重ねる。併行してのソロ活動も、安定して継続。WADAバンドではギタリストとしての活動も始める。
50代:唄の探究にかつてない力を注ぐ。50歳を迎える誕生日には、ひとりで50曲を唄い切る、と云ふマラソンライヴを挙行し、見事アンコール含め51曲を完唱。やや控えてゐたソロ活動(ギター弾き語り「吟」やベース弾き語り「独弾」)も再開。
52歳:中年期を境に落ち着き、自分に馴染んで来た感のあった「声」が、また変わって来た。ある種の曲は唄い辛くなり、また昔は唄えなかった唄が歌えるやうにはなった。この変化を、経年による劣化と捉えるか、老成と捉えるかによって、今後の歌い手としての人生が変わって来る、と思ふ。ギターにベース弦を張り「バリトン・ギター」として使う事で、音楽性にまた新たな局面を迎えつつある。いまだ悩める50代。

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