週変わりのシュウ

夢の中から責任は始まるんだ

8月1日(木)ーーーーーーーーー

昨日の火傷は、処置が良かったのか、嘘のやうに快癒してゐる。痛みもほとんどない。ちょいと温度の高いものに触れたりすると痛みを思い出す、といふ程度。紫雲膏スゲぇ!。火傷の特効薬として治験が進んでゐる、といふのも頷ける効能!。けふもぅ壱日おおげさな包帯巻きで過ごして様子を見る。

夕方からはbar AMのマスターで友人である河野のっちの生誕祭ライヴを見に行く。

のっちは折に触れ接点のある男で、古くは私の20代、常箱にしてゐたライヴハウスのスタッフだった頃に遡る。ここ数年はカワの字のコネクションにおけるキィパーソンとしての関わりが多い。彼が50代に突入するのを、同じ歳の楽師達がサポートし、なんとクアトロ広島でのワンマン。

まぁコネクションの広い男なので、この晴れやかな場にはそれこそ日本中から友や応援団が駆けつけたやうで、クアトロは満員。広島の精鋭を集めたな、の感も強いメンバーをバックに、自身はウクレレを弾きながら、風貌からはなかなか想像しにくい艶のある声で朗々と歌い上げるオリジナルのラインナップで、たっぷりと2時間。

のっち、お疲れさま。
良きライヴだった。
ただまぁ、やっぱりMCが長い。
もっと間を置かずタッタタッタと演れば良いのにな、と思ふ私がマイノリティなのだ、と思ふことにする。

8月2日(金)ーーーーーーーーー

毎年恒例、夏の長門は向津具 パタ屋での「合宿ライヴパーティー」に、今年も出陣。

そもそもはライヴを演りに行ってたこの旅程も、コロナ以降は友人らとの交流に重きを置いた「合宿」の感が強くなりつつある。だいたい初日はしーシュだけで前入りし、リハーサルや創作、撮影や録音などをしながら後続隊の到着を迎える準備、といふかんぢだったが、今年はほぼ全員が初日から参加。各々がワヤワヤと楽しみながら、それぞれの時間を過ごす日となった。

けふの私は食事当番としてカレー作りに勤しむ日。

8月3日(土)パタ屋祭り2024ーーーーーーーー

コロナの期間を経て、去年3年ぶりにこれを「公開」とし、久しぶりに地元の友人らが見に来てくれ、再会を喜んだりしたのだが、長門市は現在「コロナ◯波」宣言中らしく、マスターの嶋田ヒナオ兄貴曰く『多分誰も来んぞ』とのこと。まぁ、ヒナ兄は正直ライヴを公開しやうがしまいが、あまり気にしてはおらず、お前らの好きに演ればいいよ、と言ってくれるのだが・・・。

去年同様、今年も同行の仲間たちに「一人1パフォーム」として、ナニか一つ演れ、といふ課題を課したライヴとした。それぞれ趣向を凝らした出し物の連続で、なかなか面白かったのだが、今年はそこにやや齟齬が生じてゐた様子。

あとでちょいと個別に話もしたのだが、我々としてはここ向津具には「ライヴをしに」来てゐる、といふつもりでゐる。コロナの云々があって色々なことがややこしくなり(田舎だけに)、ここ数年は「合宿」といふ形でライヴを主軸には置いてはおらんが、それなりにここで何かの「成果を上げ」たいとは思ってゐる(収入を得たい、といふわけではなく)。

だから、今回のやうにハナから『ライヴにはならん』といふことになると、興行としては「失敗」したわけで、楽しさがそれを凌駕してくれはするが、私個人的には「なんだかナ〜」のかんぢなのだ。
結果として無茶振りで、準備してなかった人にも演ってもらったのだが(それは素晴らしかった)、まぁよく話題にのぼる『楽しさで片付けるべきものか』といふテーマに、私一人だけが準じてるのかな〜との思ひはあってフクザツである。

もちろん参加してくれるメンバーには、心から楽しんでもらえたらいいな、と思ってはゐるし、自分らも楽しんではゐる。んで、来年の予約もしてきた。来年はどんな長門行になるのだらうか?。

8月4日(日)ーーーーーーーーー

長門から帰る。

以前はこの日も、帰りがけに色んな場所に寄って遊んで帰ってゐたな、との思ひ。みんなで温泉に行ったりしてね。まぁ今回我々は急ぎの用もあってさっさと帰ったが、他のメンツは少しは寄り道して帰ったのかな?。それぞれに良き旅であったならば良いと思ふ。

人生の晩年に、このやうに気のおけぬ仲間と巡り会えることは、人生の宝である、と言ってもまったく過言ではない。みんな、幸せであるやうに。

8月5日(月)ーーーーーーーーー

パタ屋で撮ってきた動画の編集に半日を費やす。
コロナ下で始めたしーシュの「配信活動」。パタ屋での撮影は、今年で5回目になった。早いもんだな〜と思ひながら編集作業。いつも良い写真を撮ってくれる仲間のモコこと写真家の江口智子が、今回換えのバッテリィを忘れて来てゐて、写真ナシ。今まではその後一年ほど「夏イメージ」のアイコンとして使わせてもらってゐたが・・・。

私が初めて長門は向津具を訪れた時の記述は、ふるいブログ(2001年の5月)に残ってゐるが、あれが22年も前なのか、と思ふと隔世の感ありあり、である。「音楽で旅をする」といふ素晴らしさに気付いた時、であった。あの経験がなければ、今でも地方都市のインストラクターとしての仕事に満足してゐたか、当初の予定通り東京に出て食うや食わずの暮らしをしてゐたか、てところだ。

人生わからんね。

8月6日(火)ーーーーーーーーー

「あの日」である。

例年通り、「その時間」に合わせて広島平和記念公園に出向き、黙祷を捧げる。思想も主張もない。ただ、この街に生まれ育ったひとりの男として、毎年それをする。初めて「手荷物検査」なるものがあった。キシダが来てゐたからだと思ふ。あんな阿呆、要人でもなんでもないだらうに・・。いくらでも換えのきくアイコンに過ぎぬものを、たれがリスクを冒してまで狙うといふか・・・。

そしてけふは「リッチランド」といふ映画を見に行く。
世界で初めて「対人殺戮兵器」として使用された「核(正確には」に、ただ「仕事」として関わって来た、アメリカの田舎の善良な街と、その市民に焦点を当てた社会派ドキュメンタリー。

色々と考えさせられる映画だった。そのまま今のニポンの「原発の問題」に直結する見地。シムプルで起伏のない映画だが、興味ある人は見た方が良い、と思ふ。

8月7日(水)ーーーーーーーーー

色々文献を漁るうちに知ったのだが、1945年8月6日午前8:15のヒロシマの気温は26℃だったのださうな。昨日はその時間には35℃には達してゐた。この気温の上昇を、当時たれかが想像しただらうか?。いま26℃ってぇと『涼しい〜!!』とたれもが思ふだらうぜ。

その酷暑の中、チャリ漕いでバイトへ。もぅ行くだけでくたびれ果てたが、半日頑張って働いたわぃ。
けふはその後レッスンが3コマ。その後さらにぱんぱかトリオのリハ。

ツアーに向けていいかんぢのトリオである。ぱんぱかでのツアーは去年の春以来か・・。前回はそれぞれの手段で行って現地集合だったが、今回は久々に車に3人乗り込みで行く。
たのしみだね。

しかしリハ終えるともぅアカン。風呂の中で首が「カクっ」となるほど寝こけてゐた。それほどくたびれた壱日だった。

8月8日(木)ーーーーーーーーー

バイト連勤。
連勤すると「波」に慣れるのか、タマタマけふが楽な日だったのか、さほど疲弊することなく従事できた。
夕方には帰宅し、旅の準備を進めてゐるとケータイから不気味な発信音。「なんぢゃ?」と思ったら地震速報だ。

日向灘を震源とする太平洋側に大きな地震波が・・・。広島も結構不気味に揺れた。
その後初めてメディアで「南海トラフ」との関連を示唆する情報が流れ、ありゃりゃ、といふかんぢ。我らは明日からその方面に行くんだが・・・。

来るぞ来るぞ、と囁かれて久しい南海トラフ巨大地震。
まぁホンマにいつ来てもおかしくはない日常の中に、我らはゐるのだ。1日1日が運良く終えれる保証はどこにもない。何があっても慌てふためかぬやう、心と身体を鍛えておく。そして運悪く「それ」が人生の終焉を連れて来ても、それは甘んじて受け入れやう。だって他に手はないぢゃないか。