プロフィル
梶山 シュウ
電気ベーシスト、ヴォーカリスト、
シンガーソングライター
1965年広島生まれ。
独特の理念に基づく奏法と
大陸的な歌声、
ループマシンによるサウンドメイクで、
唯我独尊の道を進む
孤高の弾き語りスト。
各地をベース一本抱えて歌い歩き
ベーシストながら「吟遊詩人」と呼ばれる特異性を持つ。
梶山 シュウ
11歳で映画音楽に興味を持つが、子供心にも『こんな事はちゃんと教育を受けないとできない』と思ひ、しかし『ロックバンドならやれるかも』といふ安易な思ひからバンドを夢想したのが全ての始まり。
以来、一度も止む事なく音楽をよすがに活くる人生。
悩みも、挫折も、後悔も、すべて音楽によって救われてきた人生を実感してゐる。
音楽もアーティストも、「特にこのジャンル、この人」といふフェイヴァリットは居らず、昭和歌謡から現代音楽まで、その時々で常に興味が変化する雑食型。
典型的な直感型ベーシストで、スラップやコード弾きを多用するのにフレットレスしか弾かない、といふ変わり者。
また、ギタリストが感心するくらい流暢にアコギを弾くが、エレキを持った姿が全然サマにならないことでも知られる。オモチャの鍵盤すら持ってなかったのに、キーボード奏者として5年間ハコバンに従事してゐたのは有名。
年間150本近いライヴをこなしてゐるのでライヴ派のプレーヤーだと思われてゐるフシもあるが、実はレコーディングも得意としており、ジャンル問わず数々のレコーディングに匿名で参加してゐたりする。またヴォーカリストとしても、広い声域とテンションを自在に行き来できるコーラスワークには定評がある。
メインユニット「しーなとシュウ」のコンポーザーであるだけでなく、多岐に渡る作曲家でもあり、前衛映画『あぶない男』、や舞台『Tip Hotel 2』『うつせみ商会』では作曲家兼任で音楽監督も務めた。
インストラクター、ヴォイストレーナーとしても、過去に何人もメジャーの世界に送り出してゐるベテラン。
専門学校で教鞭を取ったり、巨大組織に属した事もあったが、現在はそれらを引退。・・・が講師としての人気は根強く、現在は個人教室を運営。
十代
10歳
映画好きな少年。しかしサントラを聴くだけで、感動した映画のシーンを想起せしめる「映画音楽」に強い興味を持つ。同じ頃、7才上の姉の聴いてゐた洋楽&ロックにも惹かれる。
11歳
クラスメートと、自分達がバンドを組む妄想に耽る日々。友人の夢でベースを弾いてゐた、といふ事から、なんとなく「ワシはベースを弾くのだ」と思ふ。が、当時はベースがどういう楽器かは知らなんだ。
12歳
小学校卒業記念学芸会で、「なにかトテツモない事をやろう!」と思ひ、妄想であった「ロックバンド結成」を実現させる。
この頃見た「ロックバンドの写真」がたまたま キッス、ビートルズ、ストラングラーズ、トム・ロビンソン・バンド、(第三期の)ディープ・パープル・・・、奇しくも「ベーシストが唄うバンド」ばかり。これで「ベーシストは唄うパートなのだ」と勘違いする。
クゥイーンのブライアン・メイが、自分でギターを作った、といふ逸話を聞いてさらなる勘違い。弦を逆に張るほど無知であったのに、ベースを自分で作る。粗大ゴミのやうなシロモノであった。
その粗大ゴミベースで卒業記念学芸会に出演。バンド名は「ザ・グースエッグス」。演目はクゥイーンの「She make’s Me(のAメロだけ)」。
中学入学
本格的にバンド「The Bright」結成。同時に吹奏楽団に入り、サックスを希望するもテューバに回されてふてくされる。
14歳
ちゃんとしたベースを買ってもらふ。文化祭、予餞会荒らしの日々。中学生活のすべてが、年に弐度あるこれの為にあった、と云っても過言ではない。当然、勉学はそっちのけ。
15歳
バンドのギタリストからちょこちょこ教わってゐたギター(アクースティック)が、そこそこ弾けるやうになり、独りで弾き語りを始める。孤独な作業に没頭するのが性にあってゐた。以後、ベースは辞め、異常なほどののめり込みでギターを弾きまくる日々。当然、勉学はそっちのけ。
高校進学
ひたすらギター弾きまくる日々。前の席に座ってゐた数井政彦(現在も敏腕レコーディング・エンジニア、アドバイザーとして頼りになる友人にして仕事仲間)と意気投合。フォークデュオ「流浪人(さすらいど)」結成。コンテスト荒らしの日々。自主企画のライヴなども行ない、また、高校生にしては達者な事を演るデュオ、と認められ、大人の世界にも顔を突っ込む。当然、勉学はそっちのけ。
高三
ブルーズやジャズを聴くやうになる。高校卒業したらアメリカか東京に出てヒトハタ上げる、とか息巻いてゐたが、結局当時付き合ってゐた 色っぽい眼鏡っ娘の彼女と離れたくないといふ理由で、人生計画の白紙撤回。
18歳
夏になる前に、件の彼女にフラれる。
19歳
フラれた勢いで音楽を辞めてしまふ。高校時代からやってゐた格闘技の方に熱意が傾き、トレーニングに明け暮れる日々。人生でもっとも「脳筋(脳ミソまで筋肉に侵される)」な時代。またバイクに凝ってゐた時代でもあり、地図も持たずに各地を放浪したりもする。
二十代
20歳
昔の事を聞き付けた友人からヘルプを頼まれ、何故か5年ぶりにテューバを吹く。久々に目標に燃え『音楽ってやっぱり良いな』と思ふ。
同時期
音楽活動再開を決意。
あとに引かぬ覚悟と、初心に帰る、といふ変に律儀な思ひ込みから、ベーシストとしてやり直すことにする。ギブソンのギターを売ってベースを買う。吹奏楽を演ってゐる後輩らを巻き込み インスト(ジャズでもフュージョンでもなくてインスト)バンド「電柱組」結成。
22歳
いちをう広島で就職。
16歳頃からの友人三代目春駒(当時の屋号は小林一彦)とバンド「小林一彦&The south side avenue band」結成。まだライヴをやってないうちから『ワシらは最強だ』と触れ回る脳筋ぶりを見せつける。
23歳
ライヴに明け暮れる。当時まだ珍しかったR&Bスタイルのオリジナルロックはそこそこ人気があり、ツアーも経験。遠からずメジャーデヴー出来るもの、と思ひ込み、会社は6ヶ月で辞職。が、同時にバンドが休止状態に入り、仕方なく各地を放浪する。
24歳
春駒が一身上の都合で音楽から撤退(のちに復帰)。アオリを受け戦々恐々とするメンバーの中で、「音楽で身を立てる」事にこだわり、誘われるバンドすべてに参加。幸いその頃には広島で「なかなかヤるベース弾き」と云はれており、7つのバンドを掛け持ち。そのリハだけでバイト代がフッ飛ぶ日々。友人に驕ってもらって喰ひ繋ぐ。
この経験から「ただベースを弾くだけの身では音楽家として不利」と実感。
25歳
初めて自分がリーダーとなって唄うバンド「オルカ団(第一期)」を結成。矢面に立つ、といふ事の大事さを知る。
26歳
インドやアラブの音楽に興味を持ちはじめる。フレットレスベースをフィーチャーした初めてのインスト曲「キャメル」を作るも、誰からも相手にされず落ち込む。旧友カズイとレコーディングバンド「GAMBOL-Allay」結成。アルバム制作に打ち込む。
27歳頃
「Oh Yeh」とか「Baby」とか「君にハッピネス」とかいふ歌詞が溢れる現状に嫌気が注し、「唄のあるすべての音楽」を否定するに至る。「弾き語り」から音楽をスタートさせた身としては大改革であった。同時期、ギタリストの柴作伊佐雄に誘われ、ジャズロックバンド「S.Y.U.K.」に参加。
また場末のフィリピン・パブのハウスバンドに、何故かキーボーディストとして参加。アレンジ理論などを現場で学ぶ。
28歳
S.Y.U.K.での活動、および鍵盤奏者としてのハウスバンドの活動で、ベースの技術、作曲技術が飛躍的に進化。この頃からぼーちぼち音楽だけで食えるやうになる。同時に初めてのベースソロパフォーマンスを行ない、好評を得て、ちょっと調子づく。「唄」ではない「声」を使った表現に可能性を感じ、再び声を出すやうになる
29歳
ながらく付き合ってゐた一般人の女性と結婚。インドへ行く。
三十代
30歳
これまで培った変態技術と民族音楽への嗜好、元々のポップ感覚を融合させたリアルポップバンド「オルカ団(第二期)」結成。これを期にヴォーカルも解禁。オルカ団に全力を注ぐ為、S.Y.U.K.を離脱。同時に「ベーシスト」といふこだわりを捨て、ステージでギターやピヤノなぞ弾くやうになる。
オルカ団は第二期から五期まで8年間に渡り、音楽性とメンバーの変更を繰り返しながら存続。同時にベース壱本によるソロパフォーマンスも定例化。
37歳
オルカ団で初めて東京ツアー実現。手応えを得るものの、その打ち上げの席でメンバーから離脱を告げられ、落ち込む。その場に居合わせた打楽器奏者くどうげんたと意気投合。それがきっかけとなり、その後ひとりでたびたび東京を訪れるやうになる。旅の始まり。
*度重なるメンバーの脱退により、2005年にオルカ団消滅。
39歳
唄とベースによる音楽表現を追い求める。それを「えせニック音楽」と名付ける。それを引っさげ、九州~山口~関西~中部~関東を廻る、初の単独ツアー決行。のちに重要な拠点となる名古屋を初めて訪れる。
四十代
40歳
「ベース弾き語りスト」といふ看板を掲げ、広島では著名なピヤノ弾き語り女史であった、椎名まさ子を誘い「しーなとシュウ」結成。
だがこの時のしーシュは、あくまでも「梶山シュウがプロデュースする椎名まさ子のソロ」といふテイであり、自身のソロとは別に、むしろ裏方の作業に徹するつもりであった。
43歳
東京で参加してゐた「キキオン+リズマ・クノムバス」の一員として、メキシコツアーが実現。異国の地で堂々と「えせニック」を爆発させ、手応えを得て、また調子づく。このキキオン+リズマ・クノムバスではDVD作品も残す。
45歳頃
再びギターを手にし、ヘタクソになってゐる事に驚き、ギターの弾き語りも始める。これが認められ「吟」といふスタイルで定着する。ベースのソロ弾き語りに関しては「独弾(どくだん)」、ギターの弾き語りは「吟」と呼び分けてゐる。
46歳頃
年間のライヴ本数が100を超えるやうになる。しーなとシュウでもツアーに出るやうになる。
48歳
しーなとシュウの活動活性。人妻であり、よその家庭の母親でもあるしーなさんを長期の旅に付き合わせ、当初はかなり顰蹙を買ってゐたやうだが、お構いなしにやってるうちに、「広島に居ない二人」と思はれるやうになり、「旅するえせニック歌謡デュオ」の名も定着する。
49歳
しーなとシュウが結成10周年を迎える。活動の範囲はさらに拡がり、北海道、東北、関東、中部、関西、とツアーのルートも定着。また唄う行商人富安秀行との活動を介し、さらに多くの実力派ミュージシャン達との邂逅を重ねる。併行してのソロ活動も、安定して継続。
五十代
50代
唄の探究にかつてない力を注ぐ。50歳を迎える誕生日には、ひとりで50曲を唄い切る、と云ふマラソンライヴを挙行し、見事アンコール含め51曲を完唱。やや控えてゐたソロ活動(ギター弾き語り「吟」やベース弾き語り「独弾」)も再開。
50代後半
中年期を境に落ち着き、自分に馴染んで来た感のあった「声」が、また変わって来た。ある種の曲は唄い辛くなり、また昔は唄えなかった唄が歌えるやうにはなった。この変化を、経年による劣化と捉えるか、老成と捉えるかによって、今後の歌い手としての人生が変わって来る、と思ふ。いまだ悩める50代。
ベースの演奏スタイルに関しては、若い頃から一貫して「音数多くよく歌う」ベースだが、嗜好するサウンドは年々野暮ったいものに向かっており、70年代に作られた廉価な国産の楽器を使ったりする。
新鋭の楽器にもあえて鈍い音の出る改造を加えており、時代を逆行してゐる。